と、玄関まであと少し、というところで、
「花々里《かがり》……、甘くていい匂いがするね」 どこかうっとりとした声音で頼綱《よりつな》からそう言われて……「ん? 何が?」と思う。 でも、彼の言葉に鼻をヒクヒクさせてみれば、家の方から甘い香りがしてくるのに気が付いて、「八千代さん、お菓子作ったのかなっ?」って思わず声を弾ませた。 にっこり笑って「プリンかなっ? カラメルソースみたいな匂いがするよね!?」ってワクワクしながら頼綱を見上げたら、頼綱ってば「いや、俺が言ったのは花々里の……」と、何かを言いかけるの。 その言葉に「ん? 私の?」って小首を傾げたら、「いや、いい」ってやめちゃって。 変な頼綱。 さては私より先に美味しい匂いに気付いたのが恥ずかしかったのかな? もう、可愛い所があるんだからっ! 頼綱はそんなに筋肉質には見えないのに、やはり男性だ。 私を抱く二の腕にも、身体を預けた胸板からも、着痩せするけれどしっかりと付いた筋肉の存在を感じさせられて。 甘い香りに負けないくらいの頼綱のいい匂いに包まれて、私はソワソワしたまま玄関をくぐった。 玄関先で頼綱から降ろされた私は、そのままひんやりと足触りのいい床の上で頼綱からパンプスを受け取った。 頼綱と離れたことが残念なような、ホッとしたような……。何とも複雑な気持ちに包まれて、呆けてしまう。 そんな折、いつの間にか出迎えてくださっていたらしい八千代さんに、背後からいきなり「お帰りなさいませ」と声を掛けられて、思わずビクッとなってしまった。 「お風呂の支度は出来ておりますので」 ひゃわわっ。 もしかして、頼綱に抱っこされてたの、見られたりしましたかっ!?<八千代さぁーん、家中に甘い匂いが満ち溢れてますけど、作ったお菓子は何ですかぁー!? それ、私も食べられますか!?***「花々里《かがり》、風呂から上がったら俺の部屋へおいで」 風呂上がりの、スーツ姿の時とは違ういい匂い――石鹸の香り――を漂わせた頼綱《よりつな》が、私の部屋をノックして顔を見せるなりそう言った。 入浴後で下ろし髪になっている頼綱は、オールバックの時より少し若く見える気がする。「おへっ!?」 お部屋に!?が最後まで言えなくて変な言葉になってしまった私に、「よもや忘れたとは言わせないよ? 絆創膏を貼る約束、したよね?」と声を低められてしまった。 ああ、そうでした! もぉ、紛らわしい言い方するから、てっきり添い寝しろとか言い出すんじゃないかと勘繰って、変にドキドキしちゃいましたよ!?「了解です!」 絆創膏問題に関しては、私も鳥飼さんに処置をしてもらったと言う負い目があるから素直に従うしかない。 それにこれ、断ると頼綱の機嫌を著しく損ねることが分かっていたから、努めて従順に振る舞って、分かりやすく敬礼してみたり。 それを見て表情を和らげた頼綱が、先程のどこか怒りを含んだ声音とは違った、少し悪戯っぽい表情でニヤリとした。「――それにね、実は俺、花々里にひとつ聞きたいことがあるんだ。スマホを忘れずに持っておいでね?」 意味深に言われて、怪しい光を灯した瞳で見つめられた私の心臓はバクバクだ。「なっ、何でしょう!?」 もったいつけずに今、話してもらえませんか!? ソワソワとそんな気持ちを込めて頼綱を見上げたら、「気になるかね?」と微笑されて。 もちろん!と言う意思表示でうんうん!と首を縦に振ったら、意地悪く目を細められる。「だったら早く風呂を済ませて俺の部屋にくるこ
と、玄関まであと少し、というところで、 「花々里《かがり》……、甘くていい匂いがするね」 どこかうっとりとした声音で頼綱《よりつな》からそう言われて……「ん? 何が?」と思う。 でも、彼の言葉に鼻をヒクヒクさせてみれば、家の方から甘い香りがしてくるのに気が付いて、「八千代さん、お菓子作ったのかなっ?」って思わず声を弾ませた。 にっこり笑って「プリンかなっ? カラメルソースみたいな匂いがするよね!?」ってワクワクしながら頼綱を見上げたら、頼綱ってば「いや、俺が言ったのは花々里の……」と、何かを言いかけるの。 その言葉に「ん? 私の?」って小首を傾げたら、「いや、いい」ってやめちゃって。 変な頼綱。 さては私より先に美味しい匂いに気付いたのが恥ずかしかったのかな? もう、可愛い所があるんだからっ! 頼綱はそんなに筋肉質には見えないのに、やはり男性だ。 私を抱く二の腕にも、身体を預けた胸板からも、着痩せするけれどしっかりと付いた筋肉の存在を感じさせられて。 甘い香りに負けないくらいの頼綱のいい匂いに包まれて、私はソワソワしたまま玄関をくぐった。 玄関先で頼綱から降ろされた私は、そのままひんやりと足触りのいい床の上で頼綱からパンプスを受け取った。 頼綱と離れたことが残念なような、ホッとしたような……。何とも複雑な気持ちに包まれて、呆けてしまう。 そんな折、いつの間にか出迎えてくださっていたらしい八千代さんに、背後からいきなり「お帰りなさいませ」と声を掛けられて、思わずビクッとなってしまった。 「お風呂の支度は出来ておりますので」 ひゃわわっ。 もしかして、頼綱に抱っこされてたの、見られたりしましたかっ!?
鳥飼《とりかい》さんにそうされた時にはこんなに変な気持ちにはならなかったのに、触れているのが頼綱《よりつな》だと意識した途端、下腹部がキュン、と疼いて落ち着かない気持ちになる。 と、頼綱が「どんな風になってるか、見せてもらうからね?」って言って。 え?と思っているうちに絆創膏をペリリと剥がされてしまった。 少し体液が滲んで患部に絆創膏が癒着してしまっていたのか、その瞬間ピリッとした痛みが走って、思わず「ひゃんっ!」って変な声が漏れた。「ごめんね、痛かったかな?」 足をやんわりと撫でられて別の意味で声を上げそうになった私は、慌てて両手で口を塞いだ。「花々里《かがり》、悪いけど窓の方に手をつくように身体の向きを変えてくれるかね?」 確かに運転席側から私の足元を見るのは角度が悪いよね。 いつもなら「もういいでしょ?」と足を引っ込めていたと思う。 なのに今の私は頼綱にもっと触れられたい、とか思ったりもしていて――。 求められるまま、素直に身体の向きを変えたら、「ああ、これは痛そうだね。水膨れが潰れてしまってる」 私の足に頼綱が顔を近づけているのが、見なくてもそこに吐息がかかることで感じられる。「んっ、……!」 押さえていても小さくくぐもった声が漏れて、それが頼綱に聞こえていないことをただただ祈っていたら、存外あっさり足から手を離されて。 ガチャッとロックが解除される音がして、私は慌てて頼綱を振り返った。 頼綱は、私のパンプスを手にしたまま運転席側のドアを開けたところで。「あ、あのっ」 靴を持っていかれたら私、困ります! でも、その呼びかけに応じられることもなくドアが閉められて、私はにわかに不安になった。 頼綱は純粋に靴擦れの具合いを気にしてくれていたのに、私が変な気持ちになって喘ぐみたいな声を上げたりしたから、呆れ
病院にいる時よりもオールバックが乱れて顔にかかる割合の増えたほつれ毛が、頼綱《よりつな》の整った顔にそこはかとない色気を添えている。 そんなところまでしっかり見えてしまって、改めてこの人はかっこいいなとか思ってしまう。 おまけに至近距離だから、頼綱が身にまとった柑橘系の爽やかな香水の香りまでもがふわりと漂って……。 間近に顔を寄せた頼綱に、唇を親指の腹でそっとなぞられた途端、ゾクリとした快感が身体を走った。 その感覚に真っ赤になりながら、「とっ、鳥飼《とりかい》さんの車の助手席には乗ってないもん!」と照れ隠しに唇を尖らせたら、頼綱が驚いたように息を飲む。 「……花々里《かがり》、それは本当かい?」 真剣な眼差しでじっと見つめられて、私は懸命にコクコクとうなずいた。 「じゃあ、アイツの車で、花々里は一体どこに座ったの?」 頼綱からの質問に、指差しで助手席後ろの後部シートを指し示しながら、「そこに乗りました!」と訴えて、 「助手席は彼女のためのシートだと思って固辞したの……!」 鳥飼さんに伝えたように、頼綱にも助手席を避けた理由を率直に話したら、途端頼綱が驚いたように瞳を見開いて……。 少し遅れて何故か照れたように視線を揺らしたのが分かった。 「ねぇ、花々里。キミは俺の車じゃ最初から助手席に乗っていたよね?」 熱を持った頬にそっと触れられて、身体に変な力が入る。 「あ、あれは頼綱がっ――」 「俺が?」 ――私のこと娶るとか何とか言ったから! そう続けようとして、でもそう言ったら嫌だ嫌だと言いながらも、そうなることを受け入れていたように思えちゃう?と思いいたって。
美味しい鰻をたらふく食べて――今日はちゃんとうな重だけじゃなくて櫃《ひつ》まぶしや肝吸いも食べさせてもらいました!――、ほわほわーんとしたほろ酔い気分で帰宅した。 とは言え私は未成年。 もちろんほろ酔いといってもアルコールを摂取したわけではなくて、待ちに待った鰻と、その雰囲気に酔いしれただけ。 私がここまで浮き足立った気分になったのは、何も美味しい鰻をお腹いっぱい食べさせてもらえたから、ばかりじゃなくて。 実際にはそのお店のその一室でした、頼綱《よりつな》とのファーストキスを思い出してしまった、というのが大きいと思う。 こんなこと恥ずかしくて頼綱には言えないけれど、どんなに頭の中で取り消そうと頑張ってみても、鰻を食べた途端、彼との初めての〝キスの味?〟を思い出してしまったんだもん。 結局私のファーストキスは、桃の甘い味と瑞々しい優しい香りなんかじゃなくて……。 ましてや頼綱が「元気な花々里《かがり》にピッタリの明るい色だから」と選んでくれたスマートフォンのカラーみたいな酸っぱくて爽やかなレモンの香りでもないみたい。 頼綱の唇を見て思い出すのは、茶色くてつやつやとした甘辛い濃厚なタレと、鰻のコッテリとした香ばしい……あのヨダレを誘うにおいのほうなの。 そんなあれこれに思いを馳せて、ぷりぷりに肉厚な鰻を食べながらソワソワと頼綱を盗み見たけれど、頼綱はそんなこと全然思い出したりしていないのかな? 私だけ意識しているみたいで恥ずかしくなるくらい、いつも通りに澄ました顔で食事をしていて。 挙げ句の果てには「どうしたんだい、花々里。早く食べないと俺が食べてしまうよ?」とか急かしてきたりする始末。 ねぇ、頼綱。覚えてないの? ここは私と頼綱にとって、初めてデート?した思い出の場所だよ? 頼綱はそんな風には思ってくれていないの?
だから「あの男には近付くな」とあれほど言い聞かせておいたのに。 うちの〝忠犬〟は食べ物を前にすると途端〝駄犬〟に成り下がる。 そこが手懐けやすくて気に入っているんだが、危険なところでもあって、油断出来ない。 〝美味しいものをあげるよ〟と言われても、〝よく知らない人に付いて行ってはいけません〟というのは、幼な子に対してだけ注意喚起しないといけない事案だと思っていたんだが……どうやら例外も存在するようだということを、俺は花々里《かがり》と再会して嫌というほど思い知らされた。 「……と、鳥飼《とりかい》さんね、私が道端にうずくまったりなんてしてたから……、その、しっ、心配して助けてくれただけなのっ」 俺に追及された花々里が、眉根を寄せてそう言ったとき、「道端?」と聞き返したら慌てたように「け、怪我して、……それでっ」と言い募ってきた。 この感じ。 きっとうずくまっていたことと、怪我とやらは直接関係していないはずだ。 それよりも、むしろ携帯を壊したことと関与している気がする。 だけど、同時にパッと見どこも何ともなさそうな花々里の怪我というのも物凄く気になって。 ――まさか服で覆われて見えない場所をあの男に見せたとか言うんじゃないだろうね? そんなことを思って「どこに?」と低い声音で詰め寄ったら、一瞬怯えた顔をした花々里が、申し訳なさそうにかかとの辺りを指さすんだ。 「ごめんなさい。大袈裟に言いました。……た、ただの靴擦れ……です……」 言われてみれば花々里の華奢な足に、両方とも絆創膏が貼られていて。 正直即座に彼女の患部からそれを引っ剥がしたい衝動に駆られた俺だったけれど、それをやったら花々里がまた痛い思いをしながら歩かなくちゃいけなくなると思って、何とか踏みとどまったんだ。 キミの足を見て、そんなことを考えたなんて赤裸々にぶつけたら、花々里は呆れるだろうか。 だけどね、大事にしている女の肌に他の男が触れたと思